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大河ドラマ・真田丸に登場 ご飯に汁を二度かけたのは北条氏政だけではなかった

大河ドラマ・真田丸に登場 ご飯に汁を二度かけたのは北条氏政だけではなかった

飯に汁を二度かけて父を失望させた北条氏政

2016年大河ドラマ「真田丸」でも描かれていた北条氏政と汁かけ飯の話。戦国ファンの間では有名な逸話ですが、実際に史料ではどのように書かれているのでしょうか。

大河ドラマ・真田丸に登場 ご飯に汁を二度かけたのは北条氏政だけではなかった

この話が書かれている最初の本といわれるのが、江戸時代の1656年成立の『武者物語』です。
早速現代語訳にして読んでみましょう。(原文は和泉書院『武者物語・武者物語之抄・新武者物語』に掲載)

物語は北条氏康の時。跡継ぎである氏政が一緒に食事をしていると、氏康は突然涙を流して「北条は自分の代で終わる」と言い出した。
氏政や家臣たちは驚く。
氏康は続けた。
「氏政の食べ方を見るに、一つの飯に汁を2回かけて食べていた。人間は身分の高低に関わらず1日2度の食事をするのだからこれが上達しないわけはない
それなのに、一つの飯にどれくらい汁をかけるのかも計算できず、足りずに2度もかけるのは不器用である。
朝夕に行うことでさえこのような推測ができないのであれば、人間の心底も推測できず、人を目利きできるはずがない
人を目利きできなければ良い家臣は持てず、この戦国の世で明日にでも氏康が死んでしまったら、賢い大将が隣国からやってきて氏政を滅ぼしてしまうだろう」と。

後世の人達はこのエピソードを「だから北条氏は時勢を読めず、豊臣秀吉に滅ぼされてしまったのだ」という教訓として伝えました。

ところが汁を二度かけていたのは、氏政だけではなかったのです。

大河ドラマ・真田丸に登場 ご飯に汁を二度かけたのは北条氏政だけではなかった

汁を二度かけたのは氏政だけではなかった!

「昔毛利輝元が昼飯をたべていた。初めは飯をたべ味噌汁をすすっていたが、後に飯に汁をかけてたべだした
ところが、汁のかけ方が足りないと見えてまたかけた
それを毛利元就が見て、輝元は中国十二カ国の大守がつげないであろう。残念だが大将の器でないと言った。
そして十二カ国のうち八カ国を天下様に戻して、後四カ国の殿様になって天下の客分になったらよかろうと遺言した。
しかし輝元はこれを果たさなかったのでとうとう防長二カ国になってしまった。」
(宮本常一『家郷の訓』岩波文庫より)

民俗学者である著者・宮本常一氏、はこのエピソードを「一度やりかけたことは中途で変更するものではない」という教訓として聞かされたそうです。
北条氏の小田原から遠く離れた山口県の昔話ですが、どちらもとてもよく似た話ですね。

大河ドラマ・真田丸に登場 ご飯に汁を二度かけたのは北条氏政だけではなかった

汁かけ飯は便利で合理的な昔の日本の日常食

飯に汁をかける行為は、現代では行儀が悪いように見えるかもしれません。
ですが、これは戦国時代以前から貴族も行っていた食事方法なのです。

現在のように電子レンジや炊飯器がない時代。温かいご飯がいつも食べられるわけではなく、時間がたったご飯は冷えて固くなってしまいます。
ところが、汁をかければご飯が温かく柔らかくなって、食べやすくなりますね。
さらに汁かけ飯には、短い時間で食べることができるという利点があります。
特に戦国時代、汁をかけた飯は戦の陣中でも手早く食べられる便利な食事でもあったのです。
また、現代でも、お寺のお坊さんが食事を終える時には、茶碗にお茶を入れ漬物で茶碗を拭きます。汚れとなる食べ物も粗末にしないためです。
ご飯に汁をかけて食べるのは、このように食べ物を無駄にしないための方法でもあったのかもしれません。

大河ドラマ・真田丸に登場 ご飯に汁を二度かけたのは北条氏政だけではなかった

北条と毛利、似た話が存在するということは、汁かけ飯は全国共通で話を聞いた人が誰でも理解できる身近な食べ物だったということでしょう。 当時の人がどのような食事をしたのかという視点でこの話を読むと、なんとも興味深い話に思えてくるのではないでしょうか。

Written by ハヤミ

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【戦国武将シリーズ】信長、秀吉、家康に学ぶ現代を生き抜くためのサバイバル戦国飯

鳴かぬなら殺してしまえホトトギス、

鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス、

鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス、

言うまでもなく戦国三大武将の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の性格を言い当てた格言です。

短い言葉の中で3人のキャラクターが的確に言い当てた名フレーズだと思います。

 

そんなキャラクター=人間の礎になっているものは何よりも食事であると思います。

当時の3人の食事、好物について今日は迫っていきたいと思います。

 

そんなキャラクター=人間の礎になっているものは何よりも食事であると思います。

当時の3人の食事、好物について今日は迫っていきたいと思います。

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信長は塩辛いものを好んで食べました。

これは現代人に比べて運動量が多いので身体が塩分を必要としていたことに起因し、

薄味の料理を出すと「水の味がする!」と言って気分を悪くしていたようです。

おかずに塩辛いものを好んだ半面、白米にお湯をかけただけの飯(ミソや漬物を添える場合もある)をよく食べていました。

これは食事に時間をかけたくない、と即効性を追求した結果で信長の性格がよく表れています。

もしインスタントお茶漬けがこの時代にあったらきっと毎日食べていたんじゃないでしょうか(笑)

 

また、非常に甘党だったという考察もあり、干し柿が好物だったとも。

信長と言えば宣教師から金平糖をもらったエピソードが有名ですが、きっとそれも美味しく食べたんだと思います。

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↑このシンプルさこそ信長の神髄?

 

続いて家康です。家康の強みは長寿であったこと、時期をじっと待つ辛抱強さにあります。

実際に家康は健康オタクな一面があり食事にはかなり気を遣っていたようです。

家康は粗食と知りながらも麦飯を好んで食べていました。

麦は繊維質が多く、腸内善玉菌を増やし、コレステロール・発がん物質を除去し、

さらにビタミンの合成を手伝う働きがある健康食品です。

家康は麦を食べ部下に質素倹約する領主をアピールしつつ、実はちゃっかり健康に気遣っていたのでしょう。

食事にまで表裏があるのが狸親父と言われた家康らしいと思うのは私だけでしょうか。

家康が食べ物に関する知識が豊富であったことを裏付けるエピソードは他にもあります。

関ケ原の戦いで、土砂降りの雨で火が使えず生米を食べねばならない事態になった際、

家康は「消化不良を起こすからと、コメを水に良く浸し水を完全に切ってから食べるように」と命令しました。

一方で石田三成は敗走時に空腹に耐えかねて生米を食し、腹を下して動けなくなったところを取り押さえられたと言われています。

 

それだけ食事に気を付けながら鯛のテンプラだけは我慢出来なかったところも家康の面白い所だと思います。

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↑我慢出来なくても仕方ない!?

 

さて最後は秀吉です、秀吉が好んで食べたのが味噌味の焼き蛸。

蛸のタウリンは脳機能の活性化、疲労回復に効果があり、きっと秀吉の精力的な行動、

頭脳労働の助けになったであろうことは想像に難くありません。

 

また彼の強さでもあり個性であるのが秀吉の「人たらし」の能力です。

家康の忠臣、石川数正もそのカリスマに惹かれたのか家康の元を去り豊臣に下っています。

秀吉はいつもニコニコしていて人を惹きつける何かがあった、と当時も多くの証言が上がっています。

 

そんな人たらしの秘密には彼の出生が関係していると言われています。

貧乏だった秀吉はドジョウや豆味噌といったものを食べていました。

それらの食材は幸福感をもたらす脳内物質「セロトニン」の主原料トリプトファンを多く含んでいます。

セロトニンのおかげで気持ちが前向きになっている秀吉はいつもニコニコしていて人にも好かれ、人材も寄ってくる。

その上、ストレスにも強く、柔軟なアイデアも湯水のように出て来たことでしょう。

これが秀吉というキャラクターの強みであったことは言うまでもありません。

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↑ドジョウ鍋。トリプトファンがグツグツです

 

現代でトリプトファンが入ったもの食材醤油や納豆などの大豆製品、

洋食ならヨーグルトやチーズ、バナナと言われています。

セロトニンは朝の目覚めをスッキリさせる効果もあると言われているので個人的には

それだけでも大いに摂取する価値があります。

 

仕事、家事、勉強…、現代社会を生きる我々は彼らとは違った形である種の戦いを強いられています。

そんな現代の戦場を生き抜くために運動量が多い日は塩分を多目にとり、麦飯を食べセロトニンの多い食事を摂る。

そうすれば天下を取った武将たちのように我々も成功を収めることが出来るのではないでしょうか?

Written by tori

今こそ彼に感謝!歴史上でフグを二番目に食べた勇者の物語。

火を通せばいける、3秒以内なら食べられる…日本人は世界一雑食?

世界中を旅すると様々な食べ物や飲み物に出会う。さすがにコレはたべられないだろうという、見るからに怪しいゲテモノにも。

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秀吉が恐れた「あの」魚

どれだけ歴史に興味がない人であっても、豊臣秀吉が日本を統一したことくらいは知っているだろう。豊臣秀吉は元々農民の生まれで、織田信長などの武将に仕え、手を替え品を替え、出世街道を駆け上がり、最終的に関白にまで上り詰めた人物である。現代においても尊敬する人物として挙げられることが多く、日本一有名な武将と言っても過言ではないだろう。きっと知的で、時に狡猾で、かつ大胆な人間であったのであろう。 その鬼をも恐れぬ精神の持ち主である秀吉が恐れ、禁止したものをご存知だろうか。農民の刀狩が有名だが、実は秀吉は「フグ」も禁止しているのだ。

朝鮮出兵の際、秀吉の家来たちは途中で下関に立ち寄った。その時に多くの家来がフグを食べ、食中毒で死んでいるのだ。そのため、秀吉は家来に対してフグ食を禁止した。この禁止令は秀吉の死後も、なんだかんだ江戸時代まで続いている。勇敢であるはずの秀吉でさえも、フグを恐れたのだ。

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真の勇者は誰だ

それでは歴史上、真に勇敢な人物は誰か。それは、「フグを2番目に食べた人間」であると、筆者は確信している。

よく、「最初にフグを食べた人って凄いよな〜」というようなことを聞くが、そんなやつはタダの向こう見ずの馬鹿であって、勇敢でも何でもない。それに比べて、2番目にフグを食べた人間の勇気たるや。1番目の馬鹿は確実に死んでいる。それを知っていて、それでもフグを食べるのだ。彼(仮名・河豚食死座右衛門とする。) は、確実に周囲の人間に止められただろう。「やめとけ、死ぬぞ!!」と、きっと周りに言われたに違いない。(縄文時代から食べられていたということを考えると、当時は「ウッホホ、ウホホ!!」だったかもしれない)口に入れてはいけません!の代表格であったであろうに、命を賭してまで、一体どれだけフグを食べたかったんだ…。

ただ、そうした秀吉をも超える!?偉人のお陰で、我々は今、安全にフグ刺しを食べることができるのだ。ありがとうございます。そして、ご冥福をお祈り申し上げます。

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ただ、美味しいフグを食べて死ぬ、というのはある意味本望であったかもしれない。彼、河豚食死座衛門の食に対するアグレッシブな姿勢は、今日の我々の食卓や、数々の飲食店を豊かにし、和食の発展に大きく貢献したといえよう。

学研の「マンガ伝記シリーズ」に、「河豚食死座右衛門」を入れるべきだと思う。

子どもたちが食の大切さ、ありがたみを学ぶのにうってつけだ。僕も子どもが出来たら教育の一環として、絶対に買い与える。

全国の出版社よ、「河豚食死座衛門」の本を早く出すのだ!モタモタしていると、僕が「フグ食って死んだ伝説のパイオニア」として歴史に名を残す裏工作を始めるぞ!

まず手始めにフグをたらふく食べたいので、誰か下関で美味しいフグをおごってください。

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Written by ドクさん

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【シリーズ戦国武将】グルメ武将・伊達政宗にまつわる料理と面白エピソード

先日、当ブログで伊達政宗が料理好きでいくつかの料理を考案し

将軍にもその料理の腕を振る舞った、というどちらかと言えば

政宗の理知的な一面がうかがえる話を紹介しました。【シリーズ戦国武将】料理上手でグルメな武将・伊達政宗の好物を探ってみた

その一方で政宗にはエキセントリックな一面もあったようで

まずは1つ、食事にまつわる変わったエピソードを紹介したいと思います。

001

 

ある日、豊臣秀吉、徳川家康、前田利家、そして伊達政宗の4人が

諸大名に茶の振る舞いをすることになりました。

誰がどの大名を持て成すかはくじで決め,料理の内容や招待客は直前まで知らされない趣向でした。

政宗が持て成すことになったのは佐竹義宣、浅野長政、加藤清正、上杉景勝の4人。

よりによって政宗と仲の悪い大名ベスト5に必ず入るような連中でした。

「これは…、嫌がらせをしろということだな!」

普通の人はそう考えません。しかし独眼竜は伊達じゃない。

そこで政宗がふと台所を見ると、料理人が季節の野菜のお吸い物を作っていました。

それを見てさっそく何かを思いつく政宗。

当時のお茶の席ではコース料理が振舞われるのが普通でした。

その日もさっそく4人の大名の前に1品目の先ほどのお吸い物が置かれました。

ところがお吸い物が置かれるや否や、すぐに次の料理がやってきます。

4人は慌ててお吸い物を口にします。その時です、4人が不意に吸った椀から口を放し唇を押さえはじめます。

彼らの唇は、そろって真赤に腫れ上がっていました。

政宗は彼らが口にするお吸い物を必要以上にぐつぐつ煮立て熱々の汁にして彼らに差し出したのです。

その後に出された料理やお酒も、4人は唇が痛くて食べられなかったそうです。

政宗はそれを見て会心のガッツポーズをしたと記述には残っているとかいないとか…。

ちなみに後でこの話を聞いた秀吉は腹を抱えて大笑いしたそうです。

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↑熱々のお吸い物、4人の気持ちを思うと…

他にもゲテモノ料理は美味しいからとネズミの味噌汁を作って死にかけたり、

二代目将軍秀忠を自邸に招き食事を出そうとした所で、将軍の側近に「毒見をしなければ出せない」と言われ

「毒殺は過去に考えたけどやるならそんな卑怯な手は使わず、戦争しとるわ!」と

天下の大将軍の目の前で本人に聞こえるように言い放ち大ヒンシュクを買ったりと面白エピソードには事欠きません。

ちなみにそんな徳川将軍に献上した料理で政宗お気に入りの一品が「白鳥の塩漬け」だと言われています。

どんな味がするのか想像もつきませんね。

(ジビエの白鳥食レポを見る限りでは普通の鳥と味は変わらないと書いてはありましたが…)

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↑どんな味が…?

ちなみに料理作りに精を出したのは主に晩年のことでそのグルメっぷりがたたって肥満に悩まされたという伝承もあります。

そのため健康に気を遣い1日3本のタバコを吸っていた(当時はタバコは薬扱い)そうです。

江戸時代にニコチンがあったのか、本当に薬としての効能はあったのか、色々と気になる話ですね。

前回の記事の最後、政宗の格言を紹介しましたが、ほかにも政宗はこんな料理格言を残しています

「朝夕の食事うまからずともほめて食うべし」

食事が美味しいと思えなくても美味い美味いと言って食べれば作った人間も気分がいいし

細かいことで気に病むこともなく気持ちも健やかでいられる、という意味だと思っています。

これは食事に限らず人生においてもあてはまることなのではないか、と思います。

1日3回、食事をしていて時には決して美味とは言えない食事にありつく機会もあると思います。

そんな時でも気持ちは前を向いていつも笑っている、そんな気概を持っていきたいですね。

Written by tori

【シリーズ戦国武将】 真田幸村、悲しき兄との別れとこねつけ餅

人生で避けて通れない辛い出来事の1つに別れがあります。

恋人との別れ、同級生との別れ、死別のよる別れ…、

人は生きることとは別れの連続といっても過言ではないかもしれません。

別れは悲しいものだからこそ一緒にいる時間は何よりも輝くし、

一緒にいた時の想い出や記憶はかけがえのない物になるのだと思います。

今日は戦国武将との悲しい別れとそれにまつわる食のエピソードをひとつ、紹介したいと思います。

001

 

真田幸村

戦国最後の大戦、大阪の陣。

真田幸村は豊臣側、幸村の兄信之は徳川側、と兄弟同士がそれぞれ敵対する陣に所属していました。

これは徳川が勝っても豊臣が勝っても真田家は存続できる、という父真田晶幸の計略によるものでした。

「お家存続のためとはいえ、兄弟同士が戦うことになるかもしれないのに…」と自分なんかは思ってしまうわけですが

そもそも現代社会の価値観で死ぬか生きるかの戦国時代を計ることは出来ません。

話を戻すと、この「大伏の別れ」と言われる決断によって敵味方に分かれることになった真田兄弟ですが、出来れば兄弟とは戦いたくないと互いに思っていました。

002

 

大阪、夏の陣

幸い兄弟同士で直接刃を交えることもなく、戦は徳川側の勝利に終わろうとしていましたが兄弟同士の戦いは回避できたものの、豊臣軍に属する幸村には後がありません。

このまま豊臣のために戦い、そして果てる運命は決して避けられないものでした。

覚悟を決めた幸村は最後に兄信之の屋敷を密かに訪れ二人は別れの盃を交わします。

互いに今生の別れであることは察しながら酒を飲む2人…。

そして信之は最後の餞別に冷えた米を餅にし、それに味噌を塗り幸村に渡します。

その餅こそ、当時から長野(信濃)で食べられていた「こねつけ餅」でした。

そしてその数日後、幸村は徳川へ大特攻を仕掛け戦場で命を落としました。

最後に幸村がどんな気持ちでこの餅を食したのか…想像もつきません。

ひょっとしたら少年時代の兄との楽しい記憶を思い出していたかもしれませんね。

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信濃(今の長野県)は内陸にあり水は豊富でなかったので米は貴重な食べ物でした。

なので米に小麦粉を足したものを焼くことで腹の足しにしていたのが起源と言われています。

そんなこねつけ餅ですが、長野県松代市にある真田邸や真田宝物館の近くで商品化されたものが売られています。

もし上田城などに行った際は足を延ばしてみてはいかがでしょうか?

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また家で作る場合も作り方は非常にシンプルです。

1、米と小麦を半々混ぜる 

2、クルミ味噌を塗る

(昔は餅の表面に塗っていましたが最近はおにぎりの具のように餅の中に餅を入れるのがスタンダードです)

3、家庭用蒸し機で蒸す(電子レンジだとムラが出来てしまいます)

4、薄く油を敷いたフライパンで餅の表面を色が変わる程度に焼く

これなら家で作れるし、夜食やおやつにもピッタリですね。

お餅を食べながら家のため、主君のため、命も兄との別れもいとわず信念を貫き戦った男…。

そんな幸村の気持ちを想像してみるのも「オツ」かもしれません。

Written by tori

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