限りなく透明に近いブルーに見る若者と酒文化 閉塞された世の中を変えるには?
40年経った今、優れた若者の文化は残されているのか?
作家の村上龍が「限りなく透明に近いブルー」で酒とドラッグとファックに明け暮れる若者を描き芥川賞をとってから、今年でちょうど40年になる。
文学の歴史を一変させた問題作は、40年経った今でも当時の若者文化の象徴として国内にとどまらず海外でも広く愛されてやまない。
若者たちが大音量でロック・ミュージックを聞きながらドラッグをやったり、酒を飲みながら黒人たちと乱痴気騒ぎをしたりと、過激で暴力的な描写が多いのが本作の特徴だが、その世界から40年という年月が経ち、若者の文化は大きく変化した。
輝かしいクラシック・ロックはとうの昔に消え去り、ドラッグは完全な禁忌として陳腐化し、ファックはパソコンやスマートフォンで乱交だろうが黒人だろうが子どもでも簡単に見られるものになった。
「限りなく透明に近いブルー」の世界のような、多数の大人が支配する社会やエスタブリッシュメントを脅かす若者文化は、現代に残されているだろうか。
ITなどの先端技術で成功する若者が限られたマイノリティになってしまった現代では、若者のバックボーンとなりうる優れた文化はもはや残されていないと言っても過言ではないだろう。
ずっと立場の弱いままの若者たち
寄ってたかってバイクで夜の街を暴走したり、教室のガラス窓を割って回ったり、居酒屋でバカ騒ぎしたりしても、大人の社会には何の影響を与えることもない。
社会的には立場の弱い若者にとって、完成された大人社会の制圧と管理から逃れ、革新的なムーブメントを起こし、世界に変化をもたらす、という点においては、ビートルズやローリング・ストーンズに代表される文学的なインテリジェンスに溢れた詩と体を内側から震わせる美しい音を持つクラシック・ロックの存在は大きかった。
大人社会を揺るがすほどの強いエネルギーと知的さを兼ね備えている若者文化はもう残されていないどころか、最近は暴走族もほとんど絶滅状態で、血の気の多い若者すら見かけることが少なくなった。
社会的に立場の弱い若者は、アイドルに夢中になったり、スマホゲームに夢中になったりして、大人になってもずっと立場の弱いままだ。